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トリップ管理人の部屋

いつのまにか無くなってしまうものが世の中にはたくさんあります。ご近所の風景から文化遺産、廃墟、自己の存在意義まで、管理人が魂込めて贈るメッセージです。

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浜松に永住した新撰組隊士 中島登のお店閉店

幕末、京都に横行したテロリスト達を逮捕するために生まれた新撰組は、時代の流れの中で賊軍のレッテルをはられてしまい、明治以降しばらく悪役になってしまっていた。現代では新撰組に対する偏見もなく、一種のヒーローとなっている。そんな新撰組の隊士中嶋登が浜松に住み着き、彼の作った銃砲店が子孫により最近まで営業してたのだが、先日閉店していたことが分かりましたので以前の記事と現在のお店を紹介します。

中島登

浜松市紺屋町にお住まいの中島銃砲店中島真佐世さんは新撰組隊士中島登のお孫さんにあたる。
「私のお父さんは学校の先生でした。お爺さんが新撰組の中島登です。お墓は天林寺にあります。どなたかおいでてくれるのでしょうね。時折花を供えてくれてあります。井上家とも近藤勇さんのお母さんとも元々縁があったようです。八王子の出です。(天保9年2月2日武州南多摩郡西寺方村出身)ゆかりの品はすべて函館の博物館に寄付しました。少し前の映画ですと勤王の志士が正義の味方でしたね。新撰組は悪役で。でも今の方は新撰組に引かれる方が多いようですね。新撰組の人たちは正直で貧乏くじだったけれど自分達の生きざまができたんでみんなが同情してくれるんですかねえ。日本人は赤穂浪士とか新撰組とか、赤穂浪士と新撰組は違いますけれど滅びてゆくものの悲劇的な最後の純粋さに引かれるのでしょうね。」

新撰組隊士、中島登は情報収集役にあたり甲斐、武蔵、相模の情勢を探る仕事をしていた。隊長近藤勇の命により、表に出ず、機密の働きをしていたので、行動が今もって謎だ。真佐世さんが伝え聞いた話によると、中島登は土方歳三の直属の部下で、鳥羽伏見の戦いの頃本隊に合流し、甲州勝沼、下総流山と官軍に敗れ北へ北へと追われた。流山で組長の近藤勇が捕らえられ刑場に引かれて行く途中を襲って奪いかえす計画を立てた。
隊士各々変装し、中島登は大工になりすまし腹掛けの中にのみを隠し持って、待ち構えていたが鉄砲隊の警護はなはだしく厳しいため目的を果たすことができなかった。
奥州を転戦して新国家建設を夢見た榎本武揚らとともに函館に行き、土方歳三の直属の部下として最後まで一緒に戦った。中島登は島田魁らと共に生き残り、しばらく投獄され、釈放されるまでの間、戦友達を偲び記録を書き残した。原本は紛失したそうだが、当時書き写しておいたものが残っている。これが今の数々の新撰組の物語りの貴重な資料ベースになっている。
 「絵だから誰がみてもわかるのよ。本職の絵書きのように上手でないけれどそれだからいいのよ」と真佐世さんは言う。


謹慎生活のあと、許されて駿州で剣道の師範をしていた。浜松の魚屋の店先でかつて負傷し倒れている所を助けた大島清慎とばったり会い浜松に住む事になったようだ。そして葉蘭の栽培に成功し、明治17年に鉄砲及び火薬類販売の免許を得て中島銃砲店を始めた。この店は新撰組隊士中島登が初代、今は3代目、である。官軍との戦いの中、鉄砲や大砲を相手に、刀や槍で応戦し苦労した新撰組隊士として感慨深い職業である。
 「身内は諸々の供養のために坊さんになった方が多いのです。」真佐世さんの言葉に当時の親族達の苦労がうかがえる。
 新撰組のことを記したものには永倉新八の「新撰組顛末記」があるが、彼は途中で土方歳三と袂を分かち、函館まできていないので、中島登の資料は非常に価値が高い。
 ところで浜松には中島という姓が多い。先祖をたどると新撰組の血が流れている人がいるかもしれない。

中島家の家紋

中島登使用の袖印

中島登の覚え書き
この覚え書きの中に家訓三箇条があり、1.食べ物の好き嫌いを言うな、2.勝負事をするな、金貸しは孫子の代までするな とある。


2012年6月 知人より中嶋銃砲店はとっくに閉店していると聞きました。


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