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トリップ管理人の部屋

いつのまにか無くなってしまうものが世の中にはたくさんあります。ご近所の風景から文化遺産、廃墟、自己の存在意義まで、管理人が魂込めて贈るメッセージです。

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青崩峠






峠という文字を広辞苑で調べると【タムケ】(手向)の転。通行者が道祖神に手向けをするからいう。また物事の絶頂の時期、極限。極度と書かれている。この様に峠の意は人生に例えれば、仕事、勉強、恋愛、遊び等々すべてに始まりと終わりがあり、そしてそのプロセスに峠がある。良き事も悪しき事においてもその人にとっては思い出として残り、その思い出を大事にして人生を送る人もいれば、全く人生が一変してしまう人もいる。人間一つの目標に向かって進む時、その目標が難しければ難しい程、苦しみも多いが結果として成功すれば得るものも大きい。しかし大敗をすれば失うものも大きい。だけど後悔はしない。峠を人生にたとえればこの様な事であろう。
今回から始まる「峠を行く」で、古代より街道を往来し、その旅の途中に土着民として根を下し歴史を刻んできた様々な人々が越してきた峠とその峠にある野仏を通してその地域の自然、歴史、文化などを検証できれば、正に手向けとなることであろう。信州街道を信州に向かって進み、最終的には信州の諏訪湖まで峠をテーマとして訪れてみようと思う。その第一回目は水窪町の青崩峠である。

静岡、長野県境にある青崩峠(標高1082メートル)は、国境の峠である。現在浜松市と飯田市を結ぶ国道152号線は峠の東側に新たに草木トンネルなるものが開通し、兵越峠を越えて南信濃へと簡単に行くことができる。街道は遠州側では信州街道と呼ばれ、信州では秋葉道または秋葉街道と呼ばれている。青崩峠の先へは車で行くことができない。歩いて行こうと思えば行けるのだがその先はちょっと危険である。それでも少し歩いてみた。



峠を越えると青白い世界に包まれて、なんだか別世界にいるようだ。これ以上進んで麓まで行くにはもっと朝早くから来ないとだめだろう。

峠の遠州側の町は水窪町で平安時代屋根材の杉皮を京都の公家に納めることにより早くから天領地として栄えた町である。当時京都とつながりがあったためか、応仁の乱で多くの人々が水窪に逃げ込んだと云われ、その人々と共に今日伝わっている西浦(にしうれ)田楽の芸能文化が伝わったのではないかと推測されている。この天竜水系には数多くの芸能文化が残されており、民俗学者の柳田国男、折口信夫によって紹介されているように国内でも有数の伝統芸能の宝庫なのである。この地方では毎年晩秋から新春にかけ繰り広げられる民俗色豊かな神事芸能はいまなお盛んである。江戸後期における水窪は交易と信仰の道として街道は人々の往来で賑わっている。交易は古代では塩と黒躍石が運ばれ、近世では徳川文化を中心とする太平洋側の影響力が峠を越えて信州にもたらしている。この様に水窪は峠越えの中継ぎ地点となり、山の中に於いても情報の伝達は早くこの時代にとって脇往還道として重要なルートであったと考えられる。またこの道は戦国の道でもあり甲斐の武田信玄にとって遠州攻略、そして、上洛の道としても重要な街道であったことは歴史上の事実である。
この様な風土の中にあって青崩峠は遠州と信州を結ぶ役割を担ってきた、馬追いが行き交い、商人、道者が行き交かい、信州街道(秋葉道)は脇街道として民衆の暮らしの道であった。



この峠の記録として、日本の経済が生糸の輸出でうるおっていた大正時代から昭和初期にかけて、その製糸工場で働く女工たちの悲しい出来事が伝えられている。それは山本茂実の代表作「ああ野麦峠」と同様に飛騨の女性たちのように貧苦に苦しむ女工哀史がここにもあったことである。県境域の女性たちは、激しい生糸相場で弄ばれるように、青崩峠を境に信州、豊橋、浜松、三河、遠州方面へと出稼ぎに行ったが(実際は連れて行かれたに等しいといわれる)現実は厳しく、望郷の念にかられながら、病に倒れていった女工がいた話が伝わっている。私は学生時代山本茂実氏の講演を聴いたことがある。彼女達の境遇は、日本経済の発展においてはしかたのなかったことだとする歴史的認識が日本ではあるが、じょうだんじゃない、その女工が自分の子どもだったらどうだ、妹だったらどうだ、日本経済の発展のためになぜ、自分の家族が犠牲にならなければならないんだ、と、山本氏は話していた。このことは現代にも通じると思う。日本経済が立ち直っても、自分の工場や商店が潰れ、子供達がフリーターではしかたがない。テレビで、女性のコメンテーターが就職難について、「そこまでは国が面倒を見る必要がない、世界にはもっと大変な国がある、日本国籍があるだけでも恵まれている。」と述べていたが、若い人たちに職がないというのは国にとっても大変なことだと思うが。話を戻すが、女工たちも食事だけは喜んでいた。白いご飯とタクアン、うすい味噌汁だけでも彼女たちにはごちそうだったらしい。それも悲しい話である。


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