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トリップ管理人の部屋

いつのまにか無くなってしまうものが世の中にはたくさんあります。ご近所の風景から文化遺産、廃墟、自己の存在意義まで、管理人が魂込めて贈るメッセージです。

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浜松市春野町「勝坂」廃校廃城

以前水窪の高根城を紹介したが、高根城から二俣城に掛けて、武田と家康が取り合った城がいっぱいある。二俣から春野町に入ると勝坂神楽の里がある。ここには徳川家康が飲んだありがたいわき水があるので、家康にあやかって飲んでいく。近くには昭和30年代に建てられた勝坂小学校がある。実は浜松市にはこういった廃校が驚くほどたくさんあってホームページなどで、何かに使って下さいとお願いしているのだ。春野町は特に多い。ここの小学校は公民館として使用されている。なぜか二宮金次郎先生の像が見当たらなかった。この地から水窪の高根城方面に向かうと勝坂城砦跡がある。砦に登る道があるような無いような危険な感じなので隣の山へ登ってみる。なぜかハシゴのようなのがある。ぼろいので危険である。砦の景色もよく見えなかった。
勝坂神楽の里の茶屋家康が飲んだ湧水
勝坂小学校
勝坂城砦(橋の向こう左)  勝坂城砦(登れない)隣の小山を上る下を見る上を見る
陸軍中野学校二俣分校校址正面は天竜区役所(ここに中野学校があった)明治から昭和に掛けて陸軍の訓練用船のいかり

帰りに二俣にある「陸軍中野学校二俣分校校址」を見ていく。ルバング島に29年間暗躍していた小野田寛郎少尉がここの出身である。子供心にも、恥ずかしながらのグアムの横井庄一さんと小野田寛郎少尉とは精悍さが違うと思っていたが、小野田少尉は中野学校出身と聞き「なるほど」と思ったものだ。横井庄一さんは、ただ、隠れていたのに対し、小野田少尉は諜報活動を続けていたのだ。その小野田少尉は従軍慰安婦も南京大虐殺も無かったと言っている。小野田少尉が言っているのだからそれは正しいと思う。なぜなら、陸軍中野学校のポリシーは、情報に流されず、物事を正しく判断することの訓練を第一としていた。敵味方とか、知り合いとか上司とか関係ないのである。そうでなくてはスパイは勤まらないのだ。今、私の会社では取引先の銀行から、見込みが無いとか、従業員は辞めた方がいいとか(本当に従業員辞めた)、廃業したほうがいいとか言われ、途方に暮れているのだが、自分でしっかりと判断したいものだ。
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| 城址のある風景 | 21:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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町寂れ、されど文化有り 水窪町高根城址

以前奥さんのお兄さんのお供で首都高速を走らされたことがある。初めての首都高でおろおろする私に兄さんが、おまえは水窪か、と言った。他意は無いのだがこれが浜松人の水窪への認識である。聞くところによると水窪賃金なるものがあり、浜松に合併してから水窪人だけは賃金が安い会社もあると聞く。だが民俗学者の柳田国男は田舎にこそ日本の文化が残っていると言っている。文化とは精神面も含めてである。そんな水窪は長野県南信濃との県境に位地する山と清流に恵まれた自然豊かな町である。町の歴史は古く古代より交易街道の地として栄え、平安時代には都に屋根材の杉皮を供給し、江戸時代には町は天領地に指定され、江戸幕府への木材の供給先としていた。
今も町には南北に縦断する秋葉街道又は信州街道とも呼ばれる街道が残されており、街道は古代には相良からの塩が長野県方面に向けて運ばれ、長野の和田からは黒曜石が運ばれた。戦国時代には武田信玄の覇権の道として遠州へ、江戸時代には交易の道、また信仰の道として多くの旅人の往来で賑わう南北交流の地として栄えた。
昭和のはじめまでは秋葉参りの往来が多かった北遠地方も鉄道や車の近代化とともに交通事情も変化しその数は激減していった。代わりに町は木材産業が盛んとなり昭和30年後半まで活気を呈していたが、その後は輸入木材に押されその勢いを失っていった。また同年代の昭和35年頃から38年までは佐久間ダムと秋葉ダムの建設がはじまりこの時期の水窪は木材とダムに働く人々が集まり町には盛り場をはじめ店は大いに繁盛した。ところがダム建設が終えると町は潮が引くように働く人々は居なくなり町は急激に活気を失っていった。又、随分昔から三遠南信道が水窪市街付近を通ると言っていたのだが、市街から大きく外れてしまった。三遠南信道が通れば町が活気づくと思っていた水窪市民はがっかりしただろう。
さて、高根城は天正4年に廃城するまで、武田信玄にとって重要な城だった。現在高根城は城内道が完全に残っており、当時の戦いぶり、暮らしぶりがまさに手に取るように解る全国でも例がない貴重な城址である。水窪では町をあげて高根城を復元した。高根城への道を地元のおばさんに聞くと、「あれは偽物だからそんな期待しないで。」「偽物で無く復元でしょ。」「ああ、復元ね。」そんな会話のあと、山の頂上を指さして高根城を教えてくれた。あとでこのおばさんの発言こそ水窪人気質だと感じることになる。
高根城からは下界の様子がよく分かる。



最高8mの2重堀切で備えは万全。攻める方はこの土塀を2度も超えねばならなかった。高根城址を歩くと、戦国時代の雰囲気が感じられてわくわくしてきた。これが正しい城址巡りだろう。想像力が無いと山の上にただ張りぼてがあると感じるだろう。もう少し元気なら走ったり堀切を超えたりしたいところだ。山の中も下ってみたい。もちろん柵があるのでそんなことをしてはいけない。
栃もちで有名な和菓子屋さん。
おなかがすいたので水窪商店街にある小さな食堂に入る。昼なお暗い店内に少々びびるが奥からおばちゃんが来てカツ丼しかないという。下の通りには国盗り(地域おこし、村おこしのお土産、お食事の店)があってそこでそばを食べられるよと言われたが、いまさら店を出るわけにも行かないのでカツ丼を頼む。大盛りね、と言われたが普通にして下さいと答えた。私の体格を見ていったのだろう。こんな場所のカツ丼なので期待してなかったのだがちゃんとカツを揚げるところから作っていた。おばちゃんはこんな店でもうしわけないというように、地元の「とじくり」というお菓子をくれた。米粉とそば粉と大豆で作ってあり香ばしくて美味しかった。昔はおにぎりぐらいの大きさで丸めて囲炉裏に放り込んで焼けたらすすを払って食べたという。水窪のお茶は美味しいよと言ってお茶を出してくれた。昔ながらの苦いお茶で本当に美味しかった。おばちゃん唯一の自慢である。さて、カツ丼ができた。おばちゃんは、うちのカツ丼は甘くないのよ。と悪そうに言った。とんでもないです、結構いけます。そのうちとろろ昆布のお吸い物を出してくれた。至れり尽くせりである。とじくり
カツ丼とろろ昆布のお吸い物

お勘定は600円だった。
ああ、こんな店なのに満足したなぁと思ったときに、私は何でこんな店だと思ったのだろう。前述の浜松人の水窪に対する認識が私にもあったのだ。おばちゃんはとても謙虚だった。そういえば高根城への道をきいたおばさんも、わざわざ遠くからこんな所に来て頂いて期待外れだったら申し訳ないという感じで、高根城のことを偽物だから、と言ったのだろう。
商店街を見るとゴミ一つ落ちていなかった。

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